恵みと律法

2012年 3月 31日

Q ある先生が次のようにお話されていました。「恵みを強調し過ぎると、クリスチャンは安逸をむさぼるようになって何もしなくなる。だから律法が必要」と。恵みを強調することは、本当に人を不従順へと導くのでしょうか。この点について、どのように考えればよいか、お教えください。

 

A パウロは、神の恵みを強調した使徒ですが、彼の教えは「放縦につながる」という理由で、多くの人たちから批判されました。キリストにある自由をはきちがえて放縦に走る考え方を、「無律法主義」と言います。もちろん、このような批判は、パウロの教えを誤解した結果出てくるものです。

パウロは、ロマ書12:1でこう教えています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。

(1)パウロの勧告の土台は、「神のあわれみ」、つまり、「神の恵み」です。パウロは、ロマ書1~11章で「神の恵み」について論じてきました。それが勧告の土台になっているのです。

(2)勧告の内容は、「全的献身」です。つまり、自分の全存在を捧げることです。旧約時代の供え物は、死んだ動物でしたが、新約時代の供え物は、他の命を犠牲にしない、自発的な供え物です。神様が評価される献身とは、律法に強制されてする行為ではなく、自発的な献身です。それこそが、霊的な礼拝であり、当然なすべき礼拝です。これは、神の恵みに対する愛の応答です。

(3)パウロは自分のことを、「キリスト・イエスのしもべ」と呼びましたが、これは逆説的言葉です。なぜなら、彼は「しもべ(奴隷)」でありながら、自由を味わっていたからです。私たちもまた、「キリスト・イエスのしもべ」としての道を歩むように召されています。私たちは、罪の奴隷状態から解放され、自由の身となりました。その結果、自らの選択によって「キリストのしもべ」となったのです。これは、自発的奴隷としての生活です。

結論を言いますと、恵みを強調することこそ、真の「キリストのしもべ」を育てる唯一の道です。

Posted by 中川健一 | 0 コメント

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